どさんこ九州に住む

北海道民が九州に移住。日々感じるカルチャーショックを4コマにしました

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4コマ「取り戻した青空が続きますように」

K市の話

 

ねこさんが現在住んでいるK市ですが、60年ぐらい前は「公害のデパート」と呼ばれるぐらい汚染された街だったそうです。

K市を流れている紫川のほとりにある「水環境館」の掲示物によると、大正時代から工業が発展し、それに伴いどんどん汚染が拡大されていった様子が書かれていました。

 

「死の海」
K市にある洞海湾は、大腸菌も死滅する海だったそうです。
そこが、なんと「貯木場」として大人気!
汚れた海水が強力な殺虫剤に最適だったそうで。

どこに使われているんでしょうね~。その木材。
みなさまの利用する建物には使われてませんか?

 

「街の様子」

林えいだい『これが公害だ「北九州市青空がほしい」運動の軌跡』(新評論によると

・真夏に「雪だ!」と子どもが歓声を上げたが、よく見るとナフタリンが降ってきていた。

・夏、窓を開けて寝ると翌朝は布団も顔も煤だらけ。
・排ガスは昼より夜がひどい。
(苦情を躱すために夜間に工場を動かしている?)
・一晩で畑の野菜が全滅。
・庭木をビニールで覆っても枯れる。
・喘息で苦しむ子ども達。
・動物も喘息。
・薬代、病院代で収入の三分の一を使う。
・家も学校も、一日何度掃除しても真っ黒。
・洗っても洗っても洗濯物が汚れる。

 

……などなど、大変な暮らしの様子が多くの写真と共に語られていました。


ナフタリンが降ってくるってなんじゃ!? です。普通じゃないですよね?

腐食した建造物や黒く汚れた小倉城
腐敗したトタン塀や汚れた煤煙が積もった雨樋。
煤で汚れた子ども達。

そんな写真がたくさんあって、胸をつかれます。

 

洗濯物は家の中に干せばいいんじゃ無いの?
と、現代だと思うかもしれません。
しかし、当時、除湿機などの空調設備を一般家庭で持てるとは思えない。

しかも、こちらに引っ越して分かりましたが、暑い夏に家の中に干す洗濯物の不快なこと、不快なこと。エアコンつけても不快です。
さらに降灰で家の中まで汚れるのですから、毎日大量の洗濯物が出るでしょう。
干しきれない。

 

何より、洗濯物が家干しできるから問題ないよね~っていう程度では無いでしょう。

 

窓を開けて寝ることを諦め、扇風機を購入したようですが、羽根が真っ黒な煤で汚れていたとか。扇風機でその量ですから、一日中呼吸し続ける肺にはどれだけの煤が溜まっているだろうと心配する話もありました。

 

住むことができずにゴーストタウンのようになった地域もあったようです。
逃げ出せなかった人たちはどうなったのでしょう。

人々が引っ越すと、それを追うように煙がやってくるという話も読みました。

 

「青空が欲しい」

そこで、動いたのが、お母さん方です。
行政じゃ無いです。
まして大企業様でも無いです。

大企業と行政はべったり蜜月♡ なんですね。

 

1950年代に活動開始したところもあるようですが、大きく動き出したのが1965年のようですね。「戸畑婦人の会」。

ご主人の勤め先やご近所の目があって、初期はなかなか人が定着しなかったらしいです。やりたいんだけど、釘を刺されるみたいな。

文句があるなら出て行けだったんでしょうね。

 

でも、苦しんでいる家族のためにと、活動は続きました。

頭が下がります。

この会の素晴らしいところは、「不満を言い合っておしまい」ではなく、勉強会を開き、科学的に理解し、調査、報告していたところです。

児童の欠席状況や喘息の状況などを調べていったようです。

「なんとなく」「感覚で」……ではなく、きちんと記録をとるのは大事です。

その後、九州大の調査でも、児童の病欠、呼吸器疾患、心臓病の死亡者の相関関係が認められたそうです。

 

活動を続けたお母さん方すごいです。

……不満を言うだけで「どうせ変わらない」と言っている人たち。
「変わらないと結論を出せるだけの行動をおこしてから言ってるのかな」といつも思います。

 

で、市が重い腰を上げるのが1971年。「北九州公害防止条例」を制定。
…この頃選挙で勝ったのは大企業と仲良しの政治家だったけど、公害問題に取り組もうとしていた候補にも結構票が入ったらしく、問題を無視できなくなっていたという話もあるらしい。

当時、日本のあちこちで公害に対する意識が高まったことも追い風になったのかもしれません。

やっと企業も世間も動き出し、官民共に協力し、1980年代に今のような環境を取り戻したようです。

 

人が住めない街が60年代にできたとしたら、元のように住めるまで20年かかったということでしょうか?
短いですか?
長いですか?

 

ちなみに、よく知られている日本の公害もこの頃動きがあったようです。

1968年
 厚生省が熊本の水俣病公害病と認定
 1953年頃に発生。
 それ以前、1949年頃にはすでに魚類に変化があった模様。

 湾の安全宣言が出たのは1997年(平成9年)

1971年
 イタイイタイ病(発生は1910年頃)

 第二水俣病(発生は1964年頃)
 が裁判で企業に勝訴

1972年
 四日市ぜんそく(発生は1959年頃)
 が裁判で企業に勝訴

1974年
 足尾銅山鉱毒事件で加害責任を認める。

 1890年以降から十数年続いた日本最初の公害事件。
 

 

足尾銅山は現在も山を戻すための緑化事業が続いているようです。

裁判に勝ったから平穏な生活が戻ってきたかというと、そうではなく、未だに苦しんでいる方々がいらっしゃると、最近も新聞で読みました。

 

 

「紫川」

1969年発行の「むらさき川」(北九州市教育委員会小倉教育事務所)

紫川沿いの小中学生が調べたことをまとめた報告冊子です。

それを読むと、上流は綺麗なのですが、下流に行くにつれ汚れていく川の様子が克明にえがかれています。

下流の石は真っ黒、水の色は赤黒くなり、ドブ川のようになっていたようです。
ドブ川、今の人たちは知らないかもしれませんね。
ドラえもんにも途中から出てこなくなりましたよね。
腐った水がでろーんと流れている場所です。ひどい悪臭がします。


工場め! 排水流したな! って思うでしょ? 
しかし、紫川の場合は、工場の排水よりも、個々の人々が汚していった気配がします。

まず、生活排水がそのまま流れていたようです。

さらに、生ゴミや、段ボール、生活用品、石油缶などなど……とにかく家庭から出たと思われるゴミが平気で捨てられていたと思われる描写が多々ありました。

 

自分一人が捨てるぐらい影響は小さい?
それとも、みんなが捨てるから自分もいい?

 

現在、小学4年生の社会科でゴミについて学習しますが、家庭の教育力が大きいと思います。
若い頃、子供会のゴミ拾いを手伝ったことがあります。
その時、「この空き缶、うちの兄ちゃんのだ~」と明るく言う子(仕事帰り、丁度飲み終わった缶コーヒーをいつもその場所で投げているらしい)がいました。「ゴミのポイ捨て駄目だよね」と言ったら「うちの父ちゃんの悪口言った!」と怒り出す子がいました。
その子達の家庭ではゴミはそこら辺に「投げる」ことが常識なのでしょう。

社会常識で「ゴミはゴミ箱へ」と教えても太刀打ちできない無力感を味わいました。

 

ひとりひとりの力が大きな汚染に繋がることもあれば、ひとりひとりの力が青空に繋がることもあることを示唆しているような出来事です。

 

 

「今」

ちゃんと青空が広がっています。
湾にも魚が戻ってきているらしいです。
紫川も水遊びができるまでになっています。

 

林えいだい氏の本に写真が載っている子ども達。1965年に10歳だとしたら、現在57歳。
今、どうしているでしょう。

健康にお過ごしでしょうか?
それとも成長期の環境の影響が今頃出ているでしょうか?
健康であって欲しいと願います。
子どもの頃、頭上を覆っていた空との違いを、どんな思いで眺めているのでしょう。

 

青空運動を始めたお母さん達。1965年に30歳だとしたら、現在87歳。
取り戻した青空を誇らしく眺めているでしょうか?

 

今、わたしは感謝しています。
皆様が諦めずに取り戻してくれた青空を眺めて。

 

無くしたくないですね。青空。

つなげていけるでしょうか。青空。

青空も海も、風も水の循環もつながっています。地球の上。

 

 

※描くに当たって参考にした写真は「北九州 公害」で検索すると見ることができます。

 

紫川でSUPした話↓

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紫川の話↓

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