萩市から山口市を通って防府市に抜ける道です。
北海道でよく見るような定規で引いたような直線では無いですし、曲がり角もありますが、大きく迂回路することのない道です。
その「萩往還とはなんぞや」というのが今回の問題。
∞
まず用語解説
- 毛利氏
西国の覇者と呼ばれる毛利元就(「三本の矢」の逸話の人)が有名。
最大時の時の領地は安芸、周防、長門、備中、備後、因幡、伯耆、出雲、隠岐、石見。つまり、現在の中国地方。(四国と九州の一部にも進出していた模様。K市にある小倉城は毛利が築いた城が始まりらしい)
織田信長が本能寺で討たれたとき、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が攻めに行っていた相手陣営が毛利。 - 関ヶ原の戦いと毛利氏
徳川家康率いる西軍と、石田三成が率いる東軍との戦い。
この天下分け目の関ヶ原の戦いで、毛利は西軍の総大将となるが戦わず。
家臣(毛利一族)が、家康側に内通しており、毛利が戦わないことと引き換えに戦後の所領の保障を約束した模様。
※訂正「徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍との戦い」でした。
ぱうすむむりく(id:wakuwaku_nikopaku)さんありがとうございました! R5.10.6 20:10
実際、終わってみれば「そんな約束知らぬ存ぜぬ」となり、毛利の所領は上記の10カ国から周防と長門の2カ国のみとなり(これが長州藩)、当時田舎だった(らしい)萩に築城することとなった。
これによって、120万石から36万石へ(石高については30万石前後という話もあり)。
当然、借金まみれ。収入が3分の1~4分の1に減だもね。
それまで抱えていた家臣を養うことができず、大量リストラしなきゃならない状況に。毛利の家紋に似た家紋を許可するなどして帰農を奨励した。
それにより、元武士の商人や農民が多くなった。 - 参勤交代
原則として大名を1年交替で江戸と国もと(領地)に住まわせ、その妻子は江戸に常住させたもの。
人数など規模が石高で決まっており、規模縮小できなかったらしい。
億単位で経費がかかった模様。
∞∞
そんな状況の毛利家所領の長州藩(現山口県)にある萩往還が整備されたのは何のため?
- 関ヶ原で西軍総大将だった毛利氏の所領との境界線が道になった。
徳川家にしてみれば。「徳川に逆らったらこうなっちゃうんだよ!」って難癖付けてお取り潰しにしたいから、目を光らせて見張っちゃうよね。 - 毛利氏が打倒徳川の為に情報や物資を最短で運べるように造った。
約束したのにって話が違うって思うよね。見せしめのようなこの扱い、徳川許すまじって思ったよね。「家康てんくらじゃー!」(「信用できないの山口弁らしい)とか言ったかもね。「ちばけんなー!」とか「つばえるも!」とか言ったかもね(いずれも「ふざけるな」の山口弁らしい)。この屈辱、子々孫々忘れるべからず! って家訓にした家もあったりして~。 - 参勤交代の為に整備した。
移動に時間がかかればそれだけお金も飛んでっちゃうもね。最短距離で行きたいね。
さあ、1,2,3のうちのどれだ!
答えは3秒後!
チッ
チッ
チッ
チーン!
答えは3の「参勤交代の為」でした。
∞∞∞
この萩往還を2回に分けて歩きました。
ちょっと長くなるので、その時のエピソードを3部に分けてお送りします。
来週は第1部「防府ー山口」。
*広告
リンク
リンク
∞∞∞∞
コメントの返信遅くなりそうです。