どさんこ九州に住む

北海道民が九州に移住。日々感じるカルチャーショックを4コマにしました

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4コマ「小倉城と虎」



ねこさんは、毎年3,4種類年賀状を作っていて、家族の写真を使ったやつは親戚用です。

 

日頃、干支を気にせず生活しておりますが、年末年始になると現在の干支と次の干支の関係が気になります。

 

なぜ、小倉城に虎の絵?

小倉城キャラクターの「とらっちゃ」は、小倉城のシンボルの虎の絵をもとにデザインされたそうです。

その「迎え虎(雄)」「送り虎(雌)」ですが、惚れ惚れするような素晴らしい絵です。

この絵が小倉城にやってきたのは昭和36年

描いた画家は佐藤高越氏。
大分県宇佐神宮のお抱え絵師であり、虎の絵専門の画家です。

 

 

ここでクイズ
Q小倉城と虎の関係を次の3つの中から選んで下さい。

①虎退治で有名な「あの武将」が建てた城だから。

②寅年に大きな出来事があったから。

③当時の市長が阪神タイガースのファンだったから。

 

 

では、「小倉城と虎の秘密」の始まり始まり~

 

それは明治維新の2年前、1866年、幕末の動乱期。

幕府と長州藩(現 山口県)が大げんか(戦争)。2回目の「長州征討」真っ最中のお話。

 

幕府側として、長州藩と戦った小倉藩
人数は少なくても近代的な兵力を持った長州藩相手に敗色濃厚。

しかも、なんだかんだあって、同じく幕府の命に従って戦っていた他藩が撤退。
(元々、士気は低かった模様。奮闘の末、長州藩を撃退した熊本藩の支援要求を幕府軍総大将が断った等々で不信感激増。不満が爆発したらしい)

他藩が撤退した翌日、今度は、その幕府軍九州勢総大将が逃亡。
驚いた小倉藩が事情を聞こうと、総大将が乗った船に近づこうとしたら、門前払い。銃を向けられ追い払われちゃう始末。

 

幕府のお手伝いで参加した長州征討。なのに、肝心の幕府の軍艦いなくなったよ。他藩は誰も残ってないよ。

さあ、どうする小倉藩! 孤立無援だ小倉藩! 
こうなったら、徹底抗戦してから城を明け渡そうって決めた小倉藩

 

が、しかし、一人の家老がその決定を覆し、長州軍がくる前に城を燃やして撤退。

香春(現、香春町)まで下がり、改めて抗戦することと相成りました。

 

 

その、城が燃えた年が寅年だったので、それにちなんで虎の絵が描かれたそうです。

 

と、いうことで正解は②でした。

 

ちなみに天守閣が再建されたのは昭和34年。虎の絵がくる2年前でした。

 

 

虎退治と言えば「加藤清正」。
彼は築城の名人で10以上の城の築城や改築に関わっているようです。
その中で一番「清正の城」と感じるのは熊本県の熊本城でしょうか?

小倉城ですが、一番最初に小倉に城を築いたのは毛利家のようです。
本格的に築城したのは細川忠興でした。
清正ではないんですよ。

 

ところで、虎退治ですが、清正だけかと思ったら違うんですね。
朝鮮出兵を命じた豊臣秀吉が「虎を所望」したとかで、いろいろな武将が虎を狩っては送っていたらしいです。島津義弘とか黒田長政とか。
秀吉の元にどんどこ虎が届いて、ついには「虎肉不要」のお達しが出たそうです。

 

 

 

おまけ

パンちゃんにはカメラレンズに反応するセンサーが搭載されています。

 

 

 

 

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年末年始ですが、ちょっと長めにお休みします。

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